東野圭吾「分身」の感想ではなく広告について
どうも、朝枝伸爾です。
小説を初めて読み切ったので、メモ的に。
もともと、
”最強のコピーライターは小説家だから”
という言葉がFBの投稿で回ってきたので、
「なるほどな」と感じて、
小説を一文一文自分ならなんて書くかを考えながら読んで見たいなあ、
って思っていた時に、友達の奥さんがたまたま小説の話をしだして「貸してあげる!」と言ってくれたので小説を読むことに。
東野圭吾の分身。
内容はこっそりクローンで生まれた二人が、
別々に育って自分の出生について調べてたら、
そっくりな二人が最後に出会っちゃう話。
(まとめすぎ?)
僕ね、これ読見ながら、
表現法とかメモしてたからね。
東野圭吾すげえは。
例えば、
”「俺はブログを更新している。それに」朝枝は唇を噛む。「これから会食があるんだ」”
みたいな。
「〜〜〜。それに」+(様子を間に入れる)「〜〜〜〜。」
っていう風に、
「それに」で切って、
一旦描写入れて、続きを書いてたりしてるんですよ。
だって、
「俺はブログを更新している。それにこれから会食があるんだ」
で、いいじゃないですか。
あえて、
「〜それに」
で切ることでリズム作ってるんですよね。
登って、降りる。
みたいなイメージ。
平坦じゃない波打つ文章。
こんな風に細かく読んでいけば、
学びしかなかったわけですよ。
と、言っても誰が読んでもそんな風に思うわけではないよね。
僕がコピーライティング視点で読んだからこそ、
生まれた感想です。
この視点を伝えることって、
世の中に価値を生み出してますね。
同じものを見ても違うものを見てるので。
広告の価値の源泉は、
同じものを別角度から映すことで
より価値を感じてもらうものです。
新しい視点をあげるってこと。
僕以外の人が読んだらまた違う世界が見えるんだろう。
元となる小説はカルピスの原液みたいなもので、
読み手はそれを薄める水。薄める側がコーヒーなのか、サイダーなのかで、原液は同じでも完成されるものは違う。
広告はこれに似てる。
同じ作品を見て、どんなことをイメージしたかを交換する会をやりたいよね。
読書感想文って、
その本に即したことを書かなきゃいけないっていう暗黙のルールあるから面白くないんだよね。脱線しまくりオッケーな世界観の「原液薄め大会」があったら面白い。
僕はこう薄めました!
の発表。
僕は東野圭吾を読んで、
広告の価値の源泉についてこうかなー、って感じたから、
ブログに書いているけど読書感想文に書いたらなんかダメだよね。
内容についてかけって言われそう。
でも、感じることが違うし、
そもそもみんな読む目的が違うわけだからねえ。
作品の中では、
自分の昔好きだった女のクローン人間を、
自分の妻に体外受精させて作ったんだけど、
クローン人間側の苦悩はやばい。
最終的には、
「誰だって自分の分身を探してるんだよね」
ってメッセージが出てくるんだけど。
まあ誰でも自分に似た人、理解し合える人が好きだわな。
この小説を読む前と読んだ後では、
きっとね街中で似た人を探すようになるね。
「あ、あいつ俺に似てる!」
って。
自分の分身を無意識に探しにいくかも。
というか、
人間の欲求ってどんどん高次元かしていくじゃないですか。
どんどん満たされていってるから。時代とともに。
で、最近の若い人の欲求って、
繋がりにお金を払うことなんですよね。
コミュニティとか。
繋がりにお金を払うってことは、
誰かを探しているとも考えれるよね。
「君の名は」じゃないけど、
どっかで自分とぴったりな誰かを探し続けてるのかも。
クローン探しの旅。
それが人間の本質だよね。
自分の分身がいる!
って聞いて会いたいって思わない人なんていないでしょ。
本能的に自分のクローンまでは行かないけど、
近しいものがある人には繋がりたい会いたい、
って思うものなのでしょう。
外見だけじゃなくて中身もね。
営業マンとかはラポール形成とか頑張るけど、
そういう共通点探し的なことじゃなく、
遺伝子レベルの近しいを探すゲームみたいなもんなのかもな。
まあそんなことをことを感じた、
沖縄の夜。
分身の感想書こうと思ったのに、脱線しまくりでたどり着けないわ。
文字じゃなくて音声にしよかな。
書いてたら忘れる。